大震災と刑務所−関東大震災(1923年)の時は、小菅刑務所(現 小菅拘置所)で一人も逃走しなかった!!−

大震災刑務所

−関東大震災(1923年)の時は、
小菅刑務所(現 小菅拘置所)で一人逃走しなかった!!−

                                     2011年4月1日



 2011年3月29日付の「震災後の容疑者釈放、計31名」とのニュース(※注1)について、國學院大學法学部 横山 實 教授より、下記のご連絡をいただきました。

 横山先生は、小野義秀『日本行刑史散策』(矯正協会、平成14年)に基づいて、関東大震災の時に震災の被害を受けた、横浜刑務所(収容者1131名)、市谷刑務所(収容者1020名)において、「解放」「釈放」がなされ、横浜刑務所では、全員が解放され、そのうち565名が約束の24時間以内に戻り、それ以外のほとんどの受刑者も遅れて戻ってきたという歴史的事実を述べられています。横浜刑務所は、震災による火災で焼け野原の状態だったそうです。

 私は、三井 明 弁護士(故人、元刑事裁判官、元家庭裁判所裁判官、『子どもの人権研究会』代表世話人、刑事被告人を「さん」付けで呼んでいたことで有名 ※注2)が、関東大震災の時の小菅刑務所(現在の小菅拘置所)について詳しく書かれていらっしゃるものを持っていますので紹介致します。

 小菅刑務所では、壊れた建物から、受刑者は誰一人逃げなかったのです。
主人公は、当時の小菅刑務所の有馬四郎助所長です。

 一般の方は、今回のようなニュースに触れると、危険な犯罪容疑者が野放しになるのではないかと不安に思われる方もいらっしゃると思いますが、歴史的事実について皆さんにも知って頂きたいと思いますので、以下ご紹介します。



特別集会 講演 「眞の生き甲斐」 三井 明 1979年10月21日
(『恵みの時』第51号 1982年6月号)

−略−
・・・そういう私を動かして、被告人をさんづけで、たとえば田中角栄さんとか、あなたは山田さんですかというふうに呼ばせるようにしたのは、有馬四郎助さんという方でありました。

 この方はずっと前に亡くなりましたが、古いお年寄りのクリスチャンの方はご存じだと思います。有名なクリスチャン典獄でした。刑務所長のことを昔は典獄と申しました。地獄天国の天国じゃないんですね。式典の典と監獄の獄、監獄を司るというような意味なんでしょう。この有馬さんはクリスチャン典獄、今でいえば刑務所長として大変尊敬された有名な方です。

 しかし元々クリスチャンだったわけでないんです。明治20年代今から数えて1880年代になりますが、その頃有馬さんは網走の刑務所長をしておられました。大変威厳のある人で、囚人からは鬼の有馬と呼ばれておりました。それが導かれてクリスチャンになったのでした。その頃北海道の刑務所には、同志社出身のすぐれた伝道者が沢山入り込んで、教誨師になっていろんな良い働きをしておりました。その中のある一人の方が有馬四郎助というのは非常に優れた刑務官である。是非彼にクリスチャンになってもらって、更に良い働きをしてもらいたい。そう思ったんでしょうね。名前はちょっと忘れました。大塚さんという方でしたかね。その方が毎週一回マルコによる福音書の講解を、筆で手紙に書いて有馬さんに送りました。何週間かかかってですね、マルコ福音書の講解がみんな終わりました。有馬さんはそれを読んだんですね。一生懸命に。そして求道の志を起して、後に洗礼を受けてクリスチャンになったんです。

 この有馬さんが小菅の刑務所長になりました。今は小菅は拘置所になっており、未決の人が入っておりますが、当時は小菅の刑務所というのは、重罪の囚人が入っておりました。十年以上の懲役あるいは無期というような人が入っていたんですね。有馬さんがその刑務所の所長をしていた時代に関東大震災がありました。刑務所の建物も壊れました。千何百人という重い刑を受けている人達がいた。でも誰れひとり逃げたものはいなかったんです。囚人達は有馬さんを非常に尊敬し、慕っておりました。ですから、有馬さんへの恩返しとして、みんな戒めあって、誰れも逃げるな、日頃の有馬さんの恩に報いるのはこの時だといって誰れひとり逃げなかったのです。それどころか、自分達で自警団を組織して、外から悪い奴が入って来るといかんからといって、警備をしたそうです。

 その中の一人に若い人がいました。彼は有馬さんから13回懲罰を受けた。刑務所では反則をすると懲罰を受けますが、13回有馬さんから懲戒を受けた。しかしその若い囚人が、夜になると提燈を持って、刑務所の中を巡回して警備をしていた。それは有馬さんの懲罰は、懲罰ではあっても、決して恨まれるような懲罰の加え方はしなかったわけですね。

 この話は海外にまで伝わりました。関東大震災で刑務所が壊れても、千何百人の囚人のうち誰ひとり逃げなかった。すばらしいことだというので、アメリカからその道の専門家がきて、有馬さんに、いったいその秘訣はなんですかと尋ねました。有馬さんは、私は彼らを囚人としてではなく人間として処遇します。処遇という言葉を使いますが、人間として扱う、ただ一言そう答えたということであります。

 また、ある死刑囚は有馬さんから○○さんというふうに呼びかけられてですね、大変感動したということが伝えられております。死刑囚として人間の屑のように思われている者が−刑務所では刑務所長というのは大きな権力を持っています。刑務所に行けば総理大臣よりも刑務所長の方が偉いわけです−その刑務所長さから、さんと言って呼ばれたということで非常に感動した。慰められ、力づけられたという話がこれも伝えられております。有馬さんにしてみれば、これはあたりまえのことで、自分は囚人を人間として、自分と同じ人格者として扱う、囚人に対しているんだということでしょう。その心が自然に有馬さんをして、その死刑囚に○○さんと呼ばせたんだと思います。

 そういうふうに、平素から囚人と有馬さんとの間に人格的な交わりがあったから、関東大震災に刑務所が壊れた時にも誰れひとり逃げるものはなかった。高い塀よりも有馬さんとの心の繋が囚人を引き留めた。逃げるという心を起こさせなかったということが、有馬さんの伝記を読みますと書いてあります。

 私はその本を読みまして励まされました。よし私も有馬さんにみならって、さんと呼ぼうと決心をいたしまして、被告人にさんと敬称をつけて呼ぶようになりました。・・・・

−略−


皆様

私は、刑事政策学者ですので、一つの情報を提供させていただきます。

今日(3月29日)の午後のヤフーニュースには、「震災後の容疑者釈放、計31名」という記事が掲載されています。その記事を読んで、一般の人々は、危険な犯罪容疑者が野放しにされたのではないかと、不安に思うかもしれません。そこで、このような不安を解消するために、まず、小野義秀日本行刑史散策』(矯正協会、平成14年)に基づいて、歴史的事実から、説明させていただきます。

関東大震災では、刑事施設も大きな損傷を受けました。その中で、特に深刻だったのは、崩壊した建物が炎上した横浜刑務所でした。1,131名を収容していた横浜刑務所は、収容者全員の解放に踏み切ったのです。小野によれは、その実情は次の通りです。

薄暮迫る午後6時、ついに構内空地で非収容者全員に対し24時間以内に立ち戻るべきことを告知して全員の解放に踏み切った。

この「解放」の措置は、明暦の大家の際に伝馬町牢獄が行った「切放」に由来するもので、以来我が国固有の慣行として受け継がれ、現行監獄法22条にも規定されている・・・、このとき初めて行われたものであった。しかし、解放されても受刑者の一部は自発的に現場に踏み留まって猛火と戦い、その後は食糧や復旧資材の運搬、更には煉瓦崩壊と火災で受刑者・職員に多数の犠牲者を出した横浜地裁の圧死死体の発掘などの要務に励み、また、民間救助にあたるなどして付近の住民からは感謝されている。

解放時間内に立ち戻った受刑者は565名、遅れて帰所する者が多かったが、・・・最終的に帰還しなかった者だけが法規に基づき、「逃走」(刑法97条)として処理された。(140ページ)

皆さんは、刑務所に入っているのは、極悪非道な犯罪者というイメージをもっているかもしれません。しかし、日本の受刑者は、明暦の大火のときもそうでしたが、非常時には、それに乗じて騒動を起こしたり、逃走を試みるようなことは稀なのです。

津波で大きな被害を出した仙台市若林区には、宮城刑務所、東北少年院(男子少年院を収容)および青葉女子学園(女子少年を収容)という3つの刑事施設があります(私は、ゼミ生ともに、これらの3つの施設に数回参観しています)。大地震から2週間経っても、これらの施設の収容者の被害について報道がありませんので、建物などの損壊はあったかもしれませんが、津波による多数の死者は出なかったと推測しています。それゆえに、宮城刑務所では、受刑者の解放をしなかったと推測しています。

*****

小野義秀は、もう一つの事実を紹介しています(134ページ)。

市谷刑務所は帝都における重要な未決拘禁施設・・・だったが、外塀のみが煉瓦造りの木造建築物であった。・・・当日の被収容者は1,020名、幸い被収容者、職員とも死傷者はなかった。地震発生で騒ぐ被収容者を取りあえず出房させ、構内の空き地に避難させたが、・・・翌2日からは、収容減措置として検事局と折衝して保釈148名、拘留不必要21名を釈放、3日以降も248名を保釈している。


福島県で行われた「震災後の容疑者保釈、計31名」は、関東大震災のときに、市谷刑務所で行われたものと同様なものです。それは、市谷刑務所から釈放されたものに比べて、格段に数が少ないものです。また、犯罪傾向が進んでなく、逃亡のおそれがないものに限って、処分保留として保釈したものです。ですから、この保釈で、危険な犯罪者を野放しにして、被災地帯の治安を悪化させるという不安は、解消していただければ幸いです。


2011年3月29日
國學院大學法学部教授
 横山 實



※注
「被災地、容疑者の釈放計61人に 宮城でも30人」

2011年3月29日21時9分 asahi.com記事

東日本大震災で、福島県内の警察署に勾留されていた容疑者のうち31人が釈放されていた事案で、宮城県内でも勾留中の容疑者ら30人を震災翌日の12日から16日までに釈放していたことがわかった。仙台地検が29日発表した。田辺泰弘・次席検事は「震災でライフラインが止まり、警察署に勾留し続けて安全が確保できるかどうかや、事件ごとの内容などを総合的に考慮した」と説明した。

地検によると、27人は起訴前の容疑者で、起訴後の勾留が3人。大半が窃盗容疑で逮捕されており、強制わいせつなど性犯罪の容疑者はいない。27人の中には釈放する予定だった人も含まれるという。地検は今後、早急に捜査を再開して事件を処理するとしている。


※注2
現在、法廷で、刑事被告人を「さん」付けで呼んでいる裁判官は、いるのだろうか?ほとんど聞いたことがないが・・・

 
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