障害者である弁護士たち!!『限界はない−障がいをもちながら第一線の弁護士として活躍する9人の物語』

障害者である弁護士たち!!
限 界 は な い
−障がいをもちながら第一線の弁護士として活躍する
9人の物語−

                                         2011年4月15日
                                                                                  2011年6月30日(更新)
                                         2011年7月8日(更新)


 東日本大震災で、『災害弱者』であるお年寄り、子どもたち、妊婦、障害者などに対する配慮が緊急の課題となっており、対策の実践が議論されています。

 さて、今般、『伊藤塾』より『限界はない−障がいをもちながら第一線の弁護士として活躍する9人の物語』(130頁 500円)が発行されました。

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 日本では、障害者である弁護士たちの物語を出版したのは史上初めてのことです。

 本屋さんでは販売していないようですが、『伊藤塾』(http://www.itojuku.co.jp )で入手可能と思います。


 わたしも取材を受け、わたし自身のことについてお話しをさせて頂きました。
 この本のインタヴュアーは、フリーライター 杉本 薫 さんです。
 (ご本人にご承諾頂いた、大胡田 誠 弁護士、黒嵜 隆 弁護士、竹下 義樹 弁護士、田門 浩 弁護士、野村 茂樹 弁護士、山田 裕明 弁護士及び私の内容は、下記の目次の名前部分をクリックすると、ご覧いただけます。)
 



はじめに

 人は無意識に自らの限界をつくってしまいがちなものです。
 しかし、ここに登場する弁護士の方々は、
 勇気をもって挑戦すれば、「限界はない」ということを教えてくれます。
 なぜ難関といわれる司法試験を目指したのか、
 そして今、どんな弁護士でありたいと願っているのか・・・。
 やればできるということを、改めて教えていただきました。
 お忙しいにもかかわらず、わざわざ私どものために時間をつくり、
 取材に応じてくださった皆さまのご厚意に深く感謝いたします。

 伊藤塾塾長・弁護士 伊藤 真


【目次】

大胡田(おおごだ) 誠 弁護士−日本で3人目の全盲の弁護士
 市民生活のどんなトラブルも引き受ける
 コンビニのような弁護士事務所をつくりたい。
 その人の人生に寄り添い、力になることができれば幸せです。

黒嵜 隆(くろさき たかし) 弁護士−何事も楽観的にとらえる車イスの弁護士
 人は本来、無限の可能性をもっています。
 ”楽しいことをイメージする想像力”さえあれば、
 人生はもっと楽しめるはずです。

●武井 徹 ニューヨーク州弁護士−英語力を活かして企業で活躍する
 アメリカの法律を学び、企業内で国際取引の案件に従事。
 つねにプラスアルファの価値を提供して、
 クライアントの期待に応えたい。

竹下 義樹(よしき) 弁護士−初めて点字による司法試験の実施を実現
 目が見えないから何かを諦めるという考えは
 私にはありません。
 問題解決のためには、全力で取り組みます。

 自らの著書『ぶつかって、ぶつかって。』(かもがわ出版、1988年6月、198頁)、ノンフィクション作家小林照幸著『全盲の弁護士竹下義樹』(岩波書店、2005年10月、310頁)がある。

田門 浩(たもん ひろし) 弁護士−ろう文化を大切にする聴覚障がいをもつ弁護士
 依頼者のうち2割は聴覚障がい者。
 健常者はもとより、障がい者の方も含め
 多くの方の力になりたい。

野村 茂樹(しげき) 弁護士−日本で初めての視覚障がい者の司法試験合格者
 プロフェッショナルとしての誇りを持ちながら、
 『雨ニモマケズ』の結語にあるような、人様のために奔走する、
 そんな姿が理想ではないかと思っています。

 著作として、「アメリカにおける盲人法律家(上)(中)(下)」(『ジュリスト』1981.12.15 No.755 P102-112、同1982.1.15 No.757 P84-93、同1982.2.1 No.758 P129-136)がある。

●森山 敦 弁護士−企業内の法務部で力を発揮する
 自分が責任をはたすことで
 新しい商品が世に誕生する。
 そんな醍醐味が、企業で働く喜びです。

山田 裕明(ひろあき) 弁護士−障がい者差別問題に長年取り組む
 障がいがあろうが、なかろうが
 人は何でもできる力をもっているものです。
 そう思えば、道は開けます。

吉峯 康博 弁護士−絶望的大病を乗り越え人権問題に生涯をかける
 子どもの人権問題と国際人権活動はライフワーク。
 そして、障がいをもった今、障がい者問題への取り組みも、
 私の使命ではないかと思っています。

 1989年、綾瀬母子強盗殺人えん罪事件は、ずさんな捜査と自白強要が大問題となり、当時大きな話題を呼んだ。事件に携わった吉峯康博さんは、以来、子どもの人権に貢献。ところが、50代半ば脳出血で重度の障がいを負ってしまう。大きなハンディを背負いながら、今日も人権問題に精力的に取り組んでいる。

吉峯康博さん(よしみね やすひろ)プロフィール
1946年 熊本市生まれ
1970年 早稲田大学第一政治経済学部経済学科卒業
1972年 世田谷区役所教育委員会就職
1979年 同上退職。司法修習生となる
1981年 弁護士登録。森田・吉峯総合法律事務所開設
1991年 吉峯康博法律事務所開設
2002年 脳出血で倒れ2003年9月まで入院。重度障がいになる
2003年 吉峯総合法律事務所(実弟、吉峯啓晴弁護士所長)に入所
2009年〜2010年 日弁連常務理事(人権擁護委員会担当の主査理事)

1992年、自身が携わったえん罪事件「綾瀬母子殺人えん罪事件」を扱った『ぼくたちやってない』横川和夫・保坂渉共著(共同通信社)出版、2005年に再版。1993年、同事件を扱ったコミック『勝利の朝』塀内夏子作画、吉峯康博、須納瀬学、木下淳博監修(小学館)出版。


〈なぜ弁護士を目指したか〉
戦争による血縁者の犠牲と、平和を願う広島という街が
社会的正義感を育てた。
非暴力で社会の不条理を変えたい。

 吉峯康博さんは熊本生まれだが、広島は第二の故郷だ。中学生の時に広島に転校し、その学校で被爆者である社会科の先生の指導もあり、驚いたことに中学生で日本国憲法前文を暗記してしまった。恒久平和と基本的人権の尊厳を謳う憲法前文は、吉峯少年にとって特別なものだったのだ。
 というのも、実は吉峯さんは、戦争によって身近な親類を3人も亡くしている。
「東京物理学校(現東京理科大学)を卒業したばかりの、人生これからという将来ある叔父は、ノモンハン事件でソ連軍に大打撃を受けて戦死しました。また、まだ結婚間もない伯母は、疎開先の広島で原爆によって即死です。そして、実業家だった伯父は戦地のニューギニアでマラリアにかかり、8月15日に戦争が終わったにもかかわらず、その1カ月後にオーストラリア軍によってジャングルに捨てられ戦病死しました」
 吉峯さんは戦争によってもたらされた身内の3人の犠牲を、苦しそうに語る。
「3人の死を悼みながら、そして第二の故郷でもある広島の『反戦平和』への願いを胸に刻みつけて、私は育ちました。最大の人権侵害は何だと思いますか?それは『戦争』にほかなりません」
 吉峯さんの言葉は強くて重い。
 成長して早稲田大学の学生となった当時、ベトナム戦争が行われ、国内では反戦運動が広がっていた。吉峯さんも当然、反戦派だった。しかし、
「暴力で変革はできない」
という信念をもち、決して彼らには参加しなかった。
「非暴力によって、社会変革や社会の進歩を目指すべきだ」
吉峯さんは、将来を真剣に考えたときに、非暴力で社会を変える仕事がしたいと強く思った。
 そして、「弁護士」という仕事を選択するのに時間はかからなかった。

〈合格までどう勉強したか〉
小学校の警備員をしながら
勉強を重ねる。
人間的にも成長できた充実した日々。

 大学で経済学を学んでいた吉峯さんが、弁護士になることを決めたのは、大学4年生の時だった。
 さあ、それからが忙しい。
 早稲田大学の法学部の授業をすべて受講し、さらには東京大学にまで出向き、法学部の授業を聴講した。
「勉強にはいろいろな方々がありますが、私は人の話を直接聞いて、その刺激をエネルギーに変え、自発的に本を読んだり、研究したりするタイプのようです」
 他の大学の授業を頻繁に受講するのは一見、大変そうに見えるが、「自分の性分に合ったやり方だった」という。
 卒業後も就職をせずに司法試験の勉強を続けたいということを父親に相談したところ、意外にも快く承諾してくれた。
 とはいうものの、結婚をした吉峯さんはすでに一家の大黒柱である。生活費を得なければならなかった。吉峯さんは小学校の警備員を続けながら勉強に励み、2人の子宝(現在、弁護士)に恵まれた。
 受験へのプレッシャーはさほどなく、むしろ、警備員をしながら社会生活に直接触れることで、人間的にも成長できた充実した時間だったという。
 吉峯さんが合格する4年前に、弟である啓晴さんも弁護士を目指し、司法試験に合格した。
「兄弟ですからね、弟の実力はだいたいわかります。弟が合格するのなら、自分が合格するのもそう遠くないだろう、という確信はもっていました」
 と笑いながら語る。そして確信のとおり、8回目の挑戦で合格することができた。その後、6年間働いた小学校を辞め司法修習生となる。

〈ライフワーク〉
子どもの人権問題と
国際人権活動は
生涯を通してやり続けたい。

 子どもの人権を守る活動と、国際人権活動は吉峯さんにとって、ライフワークだという。
 これまで、日本弁護士連合会や東京弁護士会の人権に関する会務活動に精力的に取り組み、さまざまな会の事務局長や幹事を歴任している。
 また、ウィーン国連本部のコングレス(国連犯罪防止刑事司法会議)や、コミッション(国連犯罪防止刑事司法委員会)などには、日弁連から15回も出張し、『国際(越境)組織犯罪防止条約』の審議傍聴などの取り組みをしている。
「子どもの権利を大切に思うのは、新人弁護士時代の『東京集団暴走えん罪事件』、それに続く『綾瀬母子強盗殺人えん罪事件』を手がけたことが大きく影響しています」
 『綾瀬母子強盗殺人えん罪事件』とは、1988年、東京都足立区綾瀬で発生した母子殺人強盗事件で、誤認逮捕され家庭裁判所に送致された3人の少年が、少年審判によって不処分(刑事事件の無罪に相当)の決定を受けた事件だ。
 当時、警察のずさんな捜査と少年たちへの自白強要などが問題となり、大きな注目を浴びた事件である。このとき吉峯さんをはじめ、9人の弁護士たちが付添人となり、少年たちを不処分に導いたのだ。
 このことはその後、1992年ルポルタージュ『ぼくたちやってない−東京・綾瀬強盗殺人事件』というタイトルで、横川和夫さんと保坂渉さんがまとめ、共同通信社から出版された。
 また、1993年には、吉峯さんを含め事件を手がけた3人の弁護士が監修し、同じテーマでコミック『勝利の朝』(塀内夏子作画)が出版されている。
 残念ながら『勝利の朝』は、現在絶版となっており、吉峯さんは再版への活動を自身のブログを通じて行っている。
「出版された当時は話題となり、新聞にも取り上げられました。コミックという手軽なスタイルをとったことで、普段は関心を寄せない若者からも反響が寄せられたり、『授業で使いたい』という教師の声もあったそうです。また、『少年法の授業やゼミで使いたい、少年えん罪事件を学生に理解してもらうには、とても有効』と語る大学教授もいらっしゃったようですよ」
 取り調べる側の姿勢や体制は、今とくに注目されている問題である。一般の関心がさらに高まることを吉峯さんは願っている。

〈脳卒中に倒れて〉
50代の働き盛りに突然の脳出血。
長い闘病生活を経て
意を新たに再び仕事を始める。

 連日夜遅くまで休日も関係なく、「つねに社会的弱者の味方でありたい」と願いながら仕事をしてきた吉峯さん。しかし、悲劇は55歳のある日、襲ってきた。
 脳出血で突然倒れたのだ。
 当時、身柄事件を3件抱え、相変わらず多忙な日々を過ごしていた。そこに日弁連のある会議のなかで、司法修習期間を1年間に短縮するという提案に対して、猛然と反対したのだ。
 当時、修習期間は1年半であり、それを1年間に短縮する、というものだった。
「十分な修習期間を確保しないで、司法を重視しているといえるのか!?」
 吉峯さんは大いに疑問だった。
 自身の修習期間を振り返ってみると、当時は期間が2年間。修習以外にもさまざまな自主的活動が催されていた。それらに参加することで思索の時間を得ることができ、問題意識も養われ、弁護士を目指す者にとって貴重な経験を得ることができたという。
「1年間で、それを経験するのは無理だ!」
 司法をないがしろにする提案だとして吉峯さんは激高し、その日の夜、脳出血で倒れた。
 このときのことを、パートナーは次のように述べている。
「倒れた当初は昏睡3週間、意識(記憶)もその後2ヶ月間なく、覚醒してからは私の名も呼べず、簡単な単語もいえなくて、このまま言葉を永遠に失ってしまうのではないかと心配いたしました。ドクターには『一生、寝たきりです』といわれました」
 文字通り九死に一生を得たものの、右半身マヒ、聴力は正常の70%ほど、視覚にも障がいが出て右視野狭窄となり、「第1級障がい者」となった。
 結局、約1年もの長期にわたって入院し、退院後も毎週2回リハビリのために通院した。現在は週1回となったが、毎日ヘルパーさんに手伝ってもらいながら生活をし、そして仕事をしている。
「当時は、絶望という言葉では表せないほどのひどい状況でした。生きる希望がまったくない、ただ呼吸をしているだけ、という状態です。私はあのとき、1度死んだのです。そして今の自分はといえば、まったく別の人生を生きているのだと思います」
 亡くなってもまったくおかしくない状態から、こうして仕事に復帰するまでには、誰も立ち入ることができない想像を絶する精神的、肉体的戦いがあったことは、疑いの余地もない。
「根が陽気なんです。ある意味、私は強いのかもしれないですね」
 と、吉峯さんは今だからこそ、笑いながらさらりという。

〈障がいをもつ弁護士だからできること〉
障がいがあるからこそできることを
ひとつひとつ丁寧に。
弁護士としての誇りある生き方は変わらない。

 「倒れる前、私は障がいについて、人一倍理解のある方だと自負していました。しかし、倒れてみて初めてわかりました。実はほとんどわかっていなかったんです。これは大きな新たな認識でした。どんなに理解したと思っても、健常者障がい者の気持ちはわからないものなのです」
 と語る吉峯さん。倒れる前は、さまざまな仕事に係わり、忙しすぎたのかもしれないと振り返る。
「子どもの人権を守る活動と国際人権活動は、以前と変わらずに続けていこうと思っていますが、今は障がい者問題に取り組むことも、私の使命のように感じています。日弁連や東弁のなかで、私なりにできることを貢献していきたいと思っています」
 倒れた後は徐々にではあるが、所属事務所の会議や日弁連の委員会などに参加しだし、活動の幅を広げた。字は動く左手で書き、2005年には日弁連の会長選挙運動も再び始め、一人で車イスで全国各地に出かけることもできるようになった。
 こうしてひとつひとつ確実にできることを広げていった。
 そして車イスでバリアを感じるたびに、吉峯さんは声を挙げてきた。
「『合理的配慮(Reasonable Accommodation)がないことは、差別である』ということを、今、身をもって感じています」
 そんな吉峯さんが2009年、推薦を受けて、なんと日弁連の理事に就任した。就任を引き受ける前に妻からは、
「責任が果たせないので、やめてください」
 と懇願され、吉峯さんは大いに悩んだ。
「重度の身体障がい者なので、ご迷惑をおかけするのは必至。しかし多大な不自由さと闘いながら微力ではあるが、尽力することに大きな意味があるのではないか」
 そう考え、吉峯さんは大任を引き受けることを英断した。
 そこであらためて感じたのは、法律家たちの「障がい者の権利条約」についての勉強の必要性だった。また、司法修習期間の給費制の廃止問題やゲートキーパー問題、えん罪をなくすための制度の改善、弁護士の数の少なさの解消など、変革していかなければいけないことが山積みなのが現実だと吉峯さんはいう。
 そんな吉峯さんが、今期の日弁連会長選挙に奔走し応援してきた、高い志をもつ宇都宮健児弁護士が当選したことは大いに心強いという。「弁護士は社会生活上の医師でなければならない」という宇都宮さんと、目指すところは一だ。
 現在、吉峯さんの仕事のペースは倒れる前の30%程度だという。しかし、
「倒れる前のガムシャラな働き方は反省していますが、弁護士としての生き方については誇りを持っています。そして、それは今でも変わりません。3年前から、誇りある弁護士でありたいとの想いから自己表現として、『夢を追い続ける車いすの弁護士吉峯康博』というブログ(http://yoshimine.dreama.jp/)をつくり、法律をめぐるさまざま情報を発信しています」
 これからも吉峯さんの誇りある弁護士としての人生は続く。




 また、日弁連のパンフレット 『差別禁止法の制定に向けて−障がいのある人に対する配慮は社会の義務です』(2007年34頁)も、紹介します。

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 私が約8年半前(2002年11月)に脳出血で倒れた時の事情や状況などを、詳細に書いてみました。皆さまの脳卒中予防の参考になれば幸いです。


1.私が倒れた時の状況は次のとおりです。

 2002年11月6日(水)21時頃、場所は、パレスホテル地下1階のレストラン「ハミング」でした。私が倒れたのは、仕事中ではなく、仕事が終わった直後のことです。
 当日は、18時半から20時半頃まで、日弁連のある会議(当時の日弁連会長、事務総長など有力者数十人−寺井一弘、小林元治、菊地裕太郎など−が出席)が行われました。
 その会議のなかで私は、司法修習期間を1年間に短縮するという提案に対して、猛然と反対しました。当時、修習期間は1年半であり、それをさらに1年間に短縮するという提案に「十分な修習期間を確保しないで、司法を重視しているといえるのか!?」と大いに疑問だったのです。

 私自身の修習期間を振り返ってみると、当時の期間は2年間で、修習以外にもさまざまな自主的活動が催されていました。それらに参加することで思索の時間を得ることができ、問題意識も養われ、法律家を目指す者にとって貴重な経験を得ることができたのです(「私の修習時代−『最後のあだ花』33期は私の財産であり、誇りである」東京弁護士会会報『LIBRA』2009年4月号48頁参照)。

 「1年間で、それを経験するのは無理だ!」司法をないがしろにする提案だとして、私は激高し、興奮しました。私の珍しい興奮状態を心配した菊地裕太郎弁護士は、会議が終わってすぐ「お茶でも飲まないか?」と言ってくれましたが、「ありがとう!21時にパレスホテルで妻と食事をする約束があるので、また話そう!」と断りました。

 後述のとおり、私はこの会議の直後の夕食中に脳出血で倒れたのです(『限界はない−障がいをもちながら第一線の弁護士として活躍する9人の物語−』伊藤塾 2011年123頁より)。


2.上記会議終了直後の21時頃、パレスホテル地下1階のレストラン「ハミング」で食事を始めました。妻と一緒に夕食をとる約束をしていましたが、妻は少し遅れて来たので、一人で先に食べ始めていたのです。

 食事を開始してすぐに、「ミネストローネの味がしない!!何で??」と思いました。
 私はソファー状の椅子に座っていたのですが、体がソファー状の椅子からずるずるとくずれ落ちる状態になり、「あれ・・おかしいな・・」と思った以降は、記憶がありません。
 ただ、手術室に行く際にガラガラと運ばれていくかすかな記憶は残っています。

 実際には、妻がレストランに到着した時、ソファー状の椅子の上で酔っ払ったように座っている私を発見し、直ちに救急車の手配をしました。一刻を争う事態でしたので、その素早い対応により私の命は助かったのだと思います。

 お店の方は、私が酔っ払ってソファー状の椅子の上に座っているのだと思っていたようです。

 私が救急車で運ばれていく際、「脳外科の当直医がいるのは、日大駿河台病院と聖路加病院です。どちらかを選んで下さい」と言われたそうです。意見を聞いたら、命の危険があり、一分でも早く病院に運んだ方がよいので、倒れた場所から近い日大駿河台病院の方がよいのではないかとのことだったそうで、妻も即座に同意し、日大駿河台病院に緊急搬送されました。


3.その当時の私の仕事の状況は、身柄事件を3件抱え、土曜日も日曜日もなく毎晩接見に出かけておりました。

 そのうちの1件は、東京女子医大で小学校6年生の平柳明香(あきか)さんが心臓手術中に亡くなった事件(2001年3月2日)です。

 この事件は、2001年12月29日読売新聞朝刊1面トップ「心臓手術中ミス 小6死亡 東京女子医大『事実を隠ぺい』 人工心肺誤操作」記事になりました。
 その4日後の2002年1月2日、当時の神谷町駅前の事務所で、私はその手術を執刀し事件後カルテ改ざんで証拠隠滅罪に問われたS医師に、初めて面会しました。その日は7時間話しを聴き、その後も、わけのわからない心臓外科手術について連日事情聴取を続けました。

 S講師は、2002年1月から逮捕される6月までの約6カ月間、土・日以外、ほぼ毎日長時間にわたる警視庁の『任意取調べ』を受けました。S講師は、当初から一貫してカルテ改ざんの事実を認めています。「カルテの改ざんは、東京女子医大循環器小児外科の今井康晴主任教授(当時)の指示により行った」と事実を述べただけです。

 20年近く手術を通して多くの心臓病に苦しむ子どもたちの命を救ってきたS講師を、警視庁は、逮捕に際し故意に顔をテレビカメラに写させたのです。しかも、身柄の拘束は再三の保釈請求にもかかわらず3ヶ月にも及びました。S医師は身柄拘束などによる心身の疲労のため、真っ黒だった髪の毛は真っ白になりました。

 S講師の身柄が拘束されてからも、私は主任弁護人として、土曜日、日曜日もなくS講師の接見を続け異常な超多忙な生活を送っていました。

 この事件の裁判が週1回(午前10時〜午後5時)のペースで始まった直後の2002年11月6日(水)21時頃、上記のとおり脳出血で倒れたのです。

 「倒れて約3ヶ月近くは意識不明であった。この間『あの事件はどうなった?○○さんに連絡してくれ!』等としきりにうわごとを言っていたという(妻の話)。しかし次第に言葉を失い、全く話せなくなってしまった。意識が戻っても入院中は、夢を失い、新聞、テレビにすら興味を持てなかった。」(「ひと筆 夢に可能性を!」『自由と正義』2006年9月号6頁より)

 その後、弟の吉峯啓晴弁護士はじめ弁護団がこの事件をやり通してくれました。
 人工心肺の操作をしたW医師は業務上過失致死罪に問われましたが無罪になりました。
しかし手術の責任者であるS講師の判決は、2004年4月に懲役1年執行猶予3年)の刑が確定しました。

 2005年2月、行政処分が決まりました。S講師は医師の資格剥奪を免れ、医師の資格停止1年間6ヶ月となりました。実は厚生労働省の『医道審議会』は、被害者の平柳明香(あきか)さんの父母 平柳利明・むつ美さんの、「重く罰するより、良い医師として新たな道を歩ませる機会を与えることも大事」という行政処分の軽減の「上申書」を考慮したのです。『医道審議会』に被害者からこのような上申書が提出された前例はありません。

 なお、東京女子医大循環器小児外科の今井康晴主任教授(当時、ほどなく『名誉教授』は大学に剥奪されました)は、「私たちの技術は神の領域に達している。『神の手』が直すんですよ。・・・医学部も出ていない親に情報を与えても分かるはずがない。」と真顔で言ったそうです(2002年3月18日付毎日新聞朝刊)。

 ある医師は、「カルテの改ざんはよく行われていましたが、この事件で変わるのではないか」と語っています(「ひと筆 夢に可能性を!」『自由と正義』2006年9月号7頁より)。


 
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