「わたしの修習時代−『最後のあだ花』33期は私の財産であり、誇りである」

「わたしの修習時代
−『最後のあだ花』33期は私の財産であり、誇りである」



 私の修習時代について、東京弁護士会の会報『LIBRA』(2009年4月号)に書いたものです。私が司法修習生だった当時、修習は2年でしたが、現在は残念ながら1年になっています。


「わたしの修習時代−『最後のあだ花』33期は私の財産であり、誇りである」
東京弁護士会会報『LIBRA』連載(第16回)2009年4月号
吉峯康博(33期)

 私は、1978年4月入所の33期・東京修習である。同期は、10クラス480名であった。私は「クラス連絡委員会」(通称「クラ連」、自治会のような存在)の委員長を2年間務めた。前期と後期は交替するのが通例である。しかも実務期にクラ連を存続させ、機関誌を4回発行した。年上だった私は、みんなに「吉峯さん!吉峯さん!」と言われ、つい良い気分になったのだ。しかし、副委員長などにデモクラティック且つ優秀な逸材が集まった。和田光弘(新潟・元アムネスティ日本支部長)、木村清志(徳島・元日弁連副会長)などである。
 教官にも恵まれた。民裁 武藤春光、刑裁 島田仁郎前最高裁長官、検察 渡部正和公証人連合会長、民弁 豊田泰介(故人)、刑弁 和泉芳郎(当会)などである。
 武藤先生は要件事実論の先駆者で、13年も研修所の教官をされた。講義でよく「我妻くんは・・・と言うが」と言われ、我妻 栄 を今も昔も「民法の神様」と思っている私は本当にびっくりした。教え子37人らは『法曹養成と裁判実務』(838頁、2006年、新日本法規)に論文を書いている。島田先生は、不出来な私の起案を、信じられない程懇切丁寧に採点して下さった。
 自主的活動も大変盛んであった。例を挙げると、安中公害バス旅行(入所前、菊地裕太郎らと一緒)、大森勧銀冤罪事件(1978年逆転無罪、当事者の話を聞いた)、徳島ラジオ商事件、医療過誤弁護団勉強会(須網隆夫と報告)、倒産や争議の現場訪問、横川敏雄前刑事裁判官講演会(約300人参加)など、多くの企画があった。松戸寮祭での『事件』上映の際には、大竹しのぶ(主演女優賞)の講演会を行いたくて、寮の委員長 中本和洋(大阪)らとプロダクション事務所へ押し掛け頼んだが、丁寧に断られた。
 実務修習は刑裁からだった。はじめての実務初日、小瀬保郎裁判長(現当会会員)は、4人の修習生に1人ずつ、文字通り「大事件」の記録を用意されていた。秋山規雄裁判官は、2ヶ月無罪判決を3つも書かれた。民裁では、まるで歌舞伎役者のような、見事な川嵜義徳裁判長(現当会会員)の裁判・和解を傍聴した。
 また、前期の事務所訪問でレクチャーを受けた冤罪事件(椿南公園事件)の裁判を、実務修習中に自主的に傍聴した。裁判が終わってから弁護士と当事者と一緒にお茶を飲んだが「目のきれいな」青年の無罪を確信した。この青年は、結局無罪になり、その事務所を志望し就職した。彼こそ弁護士法人川越法律事務所(前日弁連副会長 細田初男所長)の事務長を長年務めている、渡辺昌也氏である。
 33期『青法協』は約130人、『反法連』(はんぽうれん)数十人であった。22期23期は修習生の約半数の人が『青法協』だった。『青法協』攻撃は右翼が始め、最高裁も結局その先頭に立った。その結果『青法協裁判官部会』は消滅した。象徴的な事件は、宮本康昭裁判官の不当な“首切り”が最高裁により断行されたことである。全国裁判官所所長会同で宮本裁判官処分に反対したのはわずか3人であった。わが期の相当数の裁判官志望者は『宮本事件を決して忘れまい!自由で民主的な裁判所を目指そう!』と誓い合い、宮本氏の『危機に立つ司法』(1978年 汐文社)はバイブルであった。33期は『最後のあだ花』と言われ、以後修習生『青法協』の自主的活動はやりにくくなった。
 入所前パーティーを始めたのは我が期である。とにかく元気な同期生だった。
 同期は、私の財産であり、誇りである。


 
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